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ゼニガタアザラシ「静(シズ)」治療プロジェクト― 野生研究から医獣連携へ、そして新たな水族館医療の未来へ ―

2026.10.04 [スタッフブログ]

1. 研究個体としての歩み:襟裳岬から浅虫水族館へ(2013年〜)

北海道沿岸では、ゼニガタアザラシによる漁業被害が長年の課題となってきました。特に襟裳岬周辺では、サケ定置網に侵入し頭部のみを食いちぎる「とっかり喰い」が頻発し、漁業者に深刻な損害を与えていました。
北海道大学らの研究グループが発信機による行動追跡を行った結果、網への侵入は偶発的ではなく、特定個体が同じ漁場を繰り返し利用していることが判明。「漁場を効率的な採餌場所として学習しているのではないか」という仮説が生まれ、これを検証するため、2013年より浅虫水族館と北海道大学の共同研究が始まりました。
静(シズ)はその研究個体の一頭として2015年に当館に搬入され(図1)、漁具への反応実験や認知能力の評価などに参加。研究終了後は展示個体として飼育され、来館者に野生動物と人との関係性を伝える役割を担ってきました。

図 1 搬入当時の静

2. 静を襲った下顎の重度炎症(2021年〜)

2021年、静の右下顎に排膿・出血・腫脹が確認され、強い口臭や周期的な食欲不振が見られるようになりました。薬物治療を継続するも完治には至らず、2023年には左下顎にも症状が拡大。慢性的な痛みは生活の質(QOL)を著しく低下させ、根本治療のための画像診断と外科的処置が不可欠な状況となりました(図2)。

図2 術前の患部の様子(2024年6月)

3. 専門領域を越えた「多施設・多職種連携」チームの結成(2025年〜)

転機となったのは、2025年秋に新江ノ島水族館の白形知佳獣医師によって実施されたX線検査でした。検査の結果、下顎骨の骨吸収を伴う重度の根尖病巣であることが判明。対症療法ではなく、抜歯による病巣の完全除去を目指す方針へと転換しました。
しかし、体重100kg近い海獣の複雑な抜歯を、ノウハウのない当館単独で安全に実施することは困難です。そこで、以前より白形獣医師と海棲哺乳類の口腔疾患に関する共同研究を行っていた麻布大学の島津德人教授へ、白形獣医師を介して『静』の治療についての相談を持ち掛けました。その後、麻布大学と神奈川歯科大学との包括連携協定を背景とした大学間連携も生かし、歯科医学の専門家を交えた治療体制の構築が進められました。さらに、海棲哺乳類の診療経験を有する水族館や企業へと協力の輪が広がり、それぞれの専門性を持ち寄った多施設・多職種によるチームが形成されました(図3)。一つの施設だけでは実施が難しい難治性疾患に対し、以下の通り各分野の専門機関・専門家(敬称略)がそれぞれの役割を担い、結集しました。
• 浅虫水族館: 長期的な飼育・健康管理、ハズバンダリートレーニング、治療前後の管理および全体調整
• 青森県家畜保健衛生所(林敏展、髙橋玲): 浅虫水族館の担当獣医師。診療および行政・機材面での支援
• 新江ノ島水族館(白形知佳): X線検査による病変評価、共同研究基盤に基づく診療・研究連携
• 麻布大学(島津德人): 病理・細菌学的解析、大学間連携・研究連携の構築
• 神奈川歯科大学(半田慶介、青山典生): 歯科医学の高度な専門知識・技術を生かした抜歯および外科処置
• 海遊館(伊東隆臣): 大型海棲哺乳類の麻酔・生体管理
• 男鹿水族館GAO(大野晃治): 機材提供・現場技術支援
• 株式会社モリタ、モリタ製作所: 歯科医療機器の提供・技術サポート
数ヶ月にわたるオンライン会議、事前調整、そして日々のハズバンダリートレーニングを重ね、2026年8月28日、手術本番を迎えました。

 

図3 後左から、伊東獣医師・島津教授・青山歯科医師・半田歯科医師 
   前左から、大野獣医師・白形獣医師

4. 手術成功と、新たな水族館医療への一歩(2026年)

手術では、徹底した生体管理のもと、歯科医学の技術である「骨切削を伴う抜歯」を用い、計4本の抜歯と病巣の徹底的な掻爬・洗浄を実施(図4)。

 

図4 手術風景

高難度の処置にもかかわらず大きなトラブルはなく、静は速やかに覚醒し、術後の回復も良好です(図5、6)。

図5 覚醒後の静
図6 抜歯後患部

海外では医師と獣医師が協働して海生哺乳類の高度医療に挑む事例が報告されていますが、国内における多施設・多職種連携による手術の例はまだ多くありません。本症例は、人間の医療技術や各専門機関の知見を融合させることで、動物の生活の質(QOL)向上に寄与できることを示す貴重な取り組みとなりました。
浅虫水族館では、今回形成されたネットワークや得られた臨床・学術データを広く共有し、今後の海棲哺乳類における口腔疾患の「早期発見」「治療」「予防」、さらには学術研究へとつなげていくことで、水族館医療の発展に貢献してまいります。

5. 【謝辞】本手術に携わっていただいた先生方へ

多忙な中、全国から駆けつけてくださった先生方に深く感謝申し上げます。
• 病理・細菌解析、連携構築に尽力いただいた島津教授(麻布大学)
• 高度な歯科技術と知見を提供くださった半田歯科医師・青山歯科医師(神奈川歯科大学)
• 緻密な麻酔・生体管理で静を支えてくださった伊東獣医師(海遊館)
• 現場での医療サポートと機材連携に奔走くださった大野獣医師(男鹿水族館GAO)
• チーム結成のきっかけをつくり、初期診断から寄り添ってくださった白形獣医師(新江ノ島水族館)
• 機材協力いただいた株式会社モリタの皆様

浅虫水族館スタッフ一同、心より御礼申し上げます。